July 26, 2021

エアジョーダン 1から11への歩み

Nobukazu Kishi

Nobukazu Kishi

NIKE AIR JORDAN 1

ジョーダン1

 1984年度のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに入団したマイケル・ジョーダン(MJ)がナイキと契約を交わし、ルーキーイヤーのシーズン途中から提供されたシグネチャーモデル、それが1985年発売のエアジョーダン1$65・価格は全て当時のもの)である。既にエアフォース11982年)やエアシップ(1984年)で実用化されていたエアクッショニングシステムを意味するエアは、MJの滞空時間の長い跳躍にちなんだニックネーム“AIR”とのダブルミーニングだったらしい。そのシンボルには翼の生えたバスケットボール、通称ウイングロゴが採用され、アンクルスタビライザーにウイングロゴを刻印したハイカットとヒールパッドに配置したローカットの2型展開。デザイナーはピーター・ムーアとブルース・キルゴアが担当。当時のバスケットボールシューズのテクノロジーを踏襲したデザインは、アンクルスタビライザーやフレックスノッチなど複合的なオーバーレイにより構成されたアッパーを、通称シカゴやブレッドなどブルズのチームカラーに彩られたバリエーションを中心にラインナップ。このうちブルズを象徴する黒と赤で配色されたブレッドは当時のNBAより規約違反を指摘され、試合で着用するたびに罰金を課せられたが、ナイキが罰金の支払いを肩代わりしながら、この事態を逆手にとり「NBAはジョーダンにシューズの着用を禁止したが、君たちが履くことは禁止できない」との広告した。

ジョーダン1

 この他、黒/青、白/黒、白/ニュートラルグレー、白/メタリックカラーなどバリエーションを追加したハイカットに対し、後発のローカットは白/紺、白/ニュートラルグレーなど少数精鋭。当時の日本市場では未だNBAの認知も乏しく、一部のバスケットボールファンに向けて販売されたに過ぎず、しかもハイカットがシカゴ、ブレッド、白/ニュートラルグレーなど各¥17,800、ローカットが白/紺、白/ニュートラルグレーなど各¥16,400と価格設定も高額だった。販売促進用にアパレルを含むMJコレクションのカタログも制作されたが、セールス的には苦戦を強いられていた模様。最終的には、耐久性に優れたバスケットボールシューズを求めて、セール価格のエアジョーダン1を漁っていったスケートボーダーが在庫の消化に貢献した。

 

NIKE AIR JORDAN 2

ジョーダン2

ジョーダン2

 MJのシグネチャー第2世代、エアジョーダン2$100)が発売されたのは1987年。ウイングロゴをシュータンに刻印し、スウッシュを排除したミッドカット及びローカットから成るエアジョーダン2は、シリーズ唯一のイタリア製という変わり種。オリジナルカラーはミッド/ロー各2色展開と少なく、黒ベースのバリエーションが登場しなかった点でも唯一無二の個性派である。MJ2年目のシーズンが怪我の影響で18試合出場に止まったことから、クッショニングの向上を意図してポリウレタン含有量の多いソールユニットを採用。それがのちに最も加水分解し易いAJという結果を招くとは……。デザイナーは引き続きピーター・ムーアとブルース・キルゴアに加え、ジョルジョ・フランシスが招聘され、ラグジュアリーなAJスタイルを追求した。日本のスニーカー市場では徐々にナイキが注目され始めたものの、さすがに風変わりなエアジョーダン2を受け入れる懐の深さもなく、高額な価格設定も災いし、セールスは依然不調だっただろう。

 

NIKE AIR JORDAN 3

 初期AJのデザイナーを務めたブルース・キルゴアがMJの身柄を手土産に他メーカーへの移籍を画策していたことが発覚、急遽シリーズ第3世代のデザインを託されたのがティンカー・ハットフィールドだった。時間的な制約に縛られながらも、セメント柄のオーバーレイ、TPUパーツやビジブルエアの導入等、ハットフィールドが示唆したAJの新しい方向性にMJも賛同し、ここにシリーズの系譜が一新された。エアジョーダン1及び2で使用していたウイングロゴは姿を消し、それに替わる新たなシンボルとしてジョーダンの跳躍をシルエットで表現したジャンプマンが初登場。また、映画監督のスパイク・リー扮するMJの熱狂的なファン、マーズ・ブラックモンとMJ本人が共演するコマーシャルキャンペーン“MARS & MIKE”がスタート。AJシリーズの爆発的な人気上昇にダイレクトに貢献した。1988年発売のエアジョーダン3$100)はハットフィールドが最初に手掛けた作品という意味でも、歴史的かつアイコニックなシューズとして認識されるエポックメイキングの一つ。ちなみに1994年にAJの初期シリーズが初めて復刻された際、第1弾としてリリースされたのがエアジョーダン3、次いでエアジョーダン1、最後にエアジョーダン2の順だった。

 

NIKE AIR JORDAN 4

 マイケル・ジョーダンとティンカー・ハットフィールドという新体制で開発されたシリーズ第4世代のエアジョーダン4$110)は1989年発売。くるぶし丈の3/4カットというスタイルを前作から踏襲し、エアジョーダン4においてもローカットの展開なし。デュラバックをアッパーに使用した初期カラーに続いて、通称ミリタリーブルーと呼ばれる最終カラーのみ本革製のアッパーを採用。サイドパネルのメッシュ構造やTPUパーツを駆使したマルチアイレットなど斬新なディテールを散りばめ、ツーリングにはビジブルエア内臓のソールユニットを装着する。全体に軽量化を推進したライトウェイト仕様。その証に、シュータンの織りネームにはジャンプマンロゴと共に、バスケットボールカテゴリーの新系統”Flight”ロゴを刻印。日本国内でも徐々にNBAブームの兆しが見え始め、エアジョーダンシリーズの人気も加速度的に高まりつつあった1980年代末期、前年より“MARS & MIKE”キャンペーンを継続していたスパイク・リー監督の映画『Do The Right Thing』が公開されたのも1989年のこと。

 

NIKE AIR JORDAN 5

ジョーダン5

 世界的なAJシリーズの人気が社会現象にまで達したのが1990年発売のエアジョーダン5$125)の頃。米国内ではエアジョーダン5を巡り銃撃事件が発生する等、そのムーブメントはNBAブームと共に日本上陸。ナイキバスケットボールの先進性を主張するテクニカルなパーツの数々がスニーカーファンの度肝を抜いた。第二次世界大戦当時の戦闘機「P-51」にインスピレーションを得てデザインされたエアジョーダン5だが、クリアラバー採用のアウトソール、ビジブルエア搭載、アッパー側面のメッシュパネル、クリア樹脂成形のシューレースストッパーなど革新的なディテールを凝縮。加えて、ヒール側面に刻まれた背番号“23”の刺繍がエアジョーダン5の爆発的な人気を煽ったのは間違いない。なお余談だが、当時エアジョーダン58を購入するとエアジョーダンフライトクラブの入会申込書が同梱され、入会特典のTシャツやピンバッジ、会員限定販売のジョーダンコレクションのアパレルやグッズに憧れを抱いたものの、米国内居住者に限られていた入会条件のハードルは高く、AJファン垂涎の的だった。

 

NIKE AIR JORDAN 6

ジョーダン6

 シカゴ・ブルズ入団7年目にしてMJが悲願の初優勝、ファイナルMVPを獲得した1990-91シーズン。その活躍を足元で支えたのが1991年発売のエアジョーダン6$125)だ。MJの要望で「素足感覚」をテーマに掲げて開発されたシグネチャー第6世代。インナーブーツを搭載したロープロファイル(低重心)なアッパーは、パンチング加工で通気性を確保し、鋭角的なオーバーレイがつま先を開放する一方、肉抜き処理して軽量化を図ったラバー製のシュータンを採用。ヒールタブはポルシェのリップスポイラーにインスピレーションを得てデザインされたもの。更にクリアラバーやシューレースストッパーなど前作より継承したパーツと共にビジブルエアを搭載する等、ハットフィールド以降の初期AJスタイルを集大成として統合したエアジョーダン6は、紛れもないエポックメイキングである。日本ではバスケットボール漫画の金字塔『スラムダンク』で主人公の桜木花道がエアジョーダン6を履いていたことでも知られる。インフラレッドやカーマインといった独創的なカラーパレットでも大いに支持された。

 

NIKE AIR JORDAN 7

ジョーダン7

 バルセロナオリンピックが開催された1992年発売のエアジョーダン7$125)は、前年リリースのエアハラチよりダイナミックフィットシステムを導入する一方、エアジョーダン3以来の伝統だったビジブルエアを廃止、AJスタイルの新機軸を打ち出した。スパイク・リー監督のキャンペーン“MARS & MIKE”を終了し、新たにバッグス・バニーやルーニー・テューンズといったワーナー・ブラザースのマスコットキャラクターとMJが共演したプロモーションをスタート。その影響からか、シューズのデザインやカラーパレットもポップな印象に。また米国代表ドリームチームの一員としてバルセロナオリンピックに出場したMJはオリンピックカラーのエアジョーダン7を着用。日本市場でもオリンピックカラーを中心に人気を博した。

 

NIKE AIR JORDAN 8

ジョーダン8

 翌1993年発売のシリーズ第8世代、エアジョーダン8$125)はエアハラチ由来のダイナミックフィットシステムに加え、エアレイド(1992年)で採用されたサポートクロスストラップを独創的にアレンジすることで究極のフィッティングを追求したマッチョなデザインが特徴。シュータンにはジャンプマンロゴのシェニールパッチ付き。ただ、脱ぎ履きの煩わしさに閉口したMJは、練習の際にはエアジョーダン7や他のモデルを履くこともあったとか。バッグス・バニーなどキャラクターコラボのプロモーションを継続し、のちに1996年公開の映画『スペース・ジャム』(日本公開は1997年)での共演へと繋がる。なおNBAでは1990-91シーズン以来、MJ率いるシカゴ・ブルズが3連覇を達成。エアジョーダン3以降のディテールを総括したエアジョーダン6から、デザインコンセプトを刷新したエアジョーダン7を経て、テクニカルなパーツを凝縮したエアジョーダン8へ至る進化の系譜は、そのままMJの第1次黄金時代と重複する。

 

NIKE AIR JORDAN 9

ジョーダン9

 シカゴ・ブルズが3連覇を果たしたシーズンオフ、父親を痛ましい銃撃事件で亡くしたMJ1993723日「バスケットボールでやり残したことはない」と突然の引退表明。父親の遺志を継ぎメジャーリーグに挑戦する。NBAからMLBへ転身を図ったことで、MJが当時バスケットボールコートで唯一履かなかったのが1993年発売のエアジョーダン9$125)だ。前作のサポートクロスストラップがアッパー全体を覆ったデコラティブなデザインに対し、エアジョーダン9はダイナミックフィットシステムを搭載しながらアウトドアブーツを彷彿させるユニークなスタイルを披露。アウトソールには「世界」「スポーツ」の日本語が唐突に刻まれ、日本のAJファンを驚かせたが、特に深い意味はない。カラーもアウトドアを意識したブラック/オリーブをはじめ、MJの母校であるノースカロライナ大学のチームカラーが初登場。以後、ノースカロライナはAJシリーズの定番カラーに。またエアジョーダン9のソールユニットを野球用に改造したスパイクを履くMJが度々目撃され、その際に着用していたホワイトソックスの背番号“45”をフィーチャーした記念モデルもリリースされた。NBAではMJ以外の選手がそれぞれのチームカラーでエアジョーダン9を着用し話題を呼んだが、それらが発売されることはなく、より一層コレクタブルな価値を深める数奇な運命のモデルだ。

 

NIKE AIR JORDAN 10

ジョーダン10

 メジャーリーガーの夢に区切りをつけて、古巣のNBAシカゴ・ブルズへ復帰したMJには既に新しいシグネチャーモデルが用意されていた。1994年発売のエアジョーダン10$125)である。オーバーレイを極力抑えたシンプルなアッパーと、198594年の10年間にMJが成し遂げてきた実績を10本のストライプに綴ったアウトソールが特徴。シリーズ10作目のメモリアルなAJスタイル。特に1995年発売のエアジョーダン10都市限定カラーは大いに人気を博し、ニューヨーク、シアトル、シカゴ、オーランド、サクラメントをコンプリートするマニアも少なくなかった。プレミア市場では一時$2,000オーバーまで価格高騰したが、その背景には19953月の復帰戦でMJが発売前の都市限定カラー(シカゴ)を着用したことが挙げられるだろう。ちなみにMJの歩んだ軌跡としてアウトソールに刻まれた記録は、85年=新人王、86年=63点(プレーオフ最多得点記録)、87年=得点王(93年まで7年連続)、88年=ダンクチャンピオン(87年に次いで2年連続)、89年=オールディフェンスチーム選出(88年から93年まで6年連続)、90年=69点(自己最多得点記録)、91年=優勝・MVP(シーズン・プレーオフ共に)、92年=優勝・MVP(シーズン・プレーオフ共に)、93年=優勝・MVP(プレーオフ)、94年=BEYOND(これから)の10項目だった。

 

NIKE AIR JORDAN 11

ジョーダン11

フォーマルシューズのようなエアジョーダンを--そんなMJのリクエストに応えて、バリスティックナイロン製のアッパーにエナメルのトリムを切り替えたエアジョーダン11$125)は1995年発売。

ジョーダン11

エナメルのフォーマルな素材感をAJの世界観に落とし込んだハイカットに対し、エアジョーダン2以来の久方ぶりに登場したローカットは、本革のアッパーにセメント柄のエンボス加工、メッシュパネル、ステッチワークでアクセントを利かせ、ハイカットとは似ても似つかぬ独創的なデザインを披露した。のちにエナメルのトリムを切り替えたローカットも追加されるが、やはりオリジナル世代の突然変異的なローカットこそ王道だろう。またカラーレンジでは白無地のバリスティックナイロンに艶やかな黒いエナメルのトリムを切り替えた通称コンコルドをはじめ、洗練されたカラーコンビのバリエーションを展開。日本市場でもエアジョーダン6以来という圧倒的な人気ぶりで、AJシリーズの面目を躍如したエアジョーダン11を以て、AJオリジナル世代の歩みをここで区切りとする。